2008年03月05日

エドワード・W・サイード

この人は誰?

エドワード・W・サイード(?????? ???? Edward Wadie Said, 1935年11月1日 - 2003年9月25日)は、パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。彼はまたパレスチナ問題に関する率直な発言者でもあった。同い年の大江健三郎の文学を高く評価しており、良い友人であった。彼の死を知りイスラエル人の歴史家イラン・パペが「私のようなイスラエルのユダヤ人にとってサイードは、シオニズム国家で成長するということの闇と混乱のなかから私たちを連れ出し、理性と倫理、そして良心の岸辺へと導いてくれる灯台であった。」と追悼した。

サイードはキリスト教徒のパレスチナ人としてエルサレムに生まれたが、既に家族はエジプトのカイロに住んでいた。しかし、エルサレムにはサイードの叔母の家があり、彼は幼年期の多くの時間をそこで過ごした。学士号をプリンストン大学で取り、修士号と博士号はハーバード大学から取得した。英文学と比較文学の教授をコロンビア大学で40年勤めた(1963年?2003年)ほか、ハーバード大学、ジョンズ・ホプキンス大学、エール大学でも教鞭を執った。 なお、サイードの経歴に関して、自身による詐称があったという批判が存在する。「パレスチナにずっと在住していたと詐称し、ユダヤ人に追い出されたなどとありもしない被害をでっち上げた。事実は、エジプトのカイロにて、富裕層の子弟として生まれ育ったため、社会主義政策を掲げるナセルに追い出されたというのが実情である」というものだが、サイード自身の発言の検証、自伝『Out Of Place』の発売時期の検討により、悪意による中傷であるとみなす意見が有力である。


学者としては、サイードはオリエンタリズムの理論で最もよく知られている。彼は著書『オリエンタリズム』(1978年)において、西欧文化におけるアジアや中東の誤った、またはロマンチックに飾り立てられたイメージの長い伝統が、ヨーロッパやアメリカの植民地主義的・帝国主義的な野望の隠れた正当化として作用してきたと主張している。

パレスチナ問題の発言者として、彼はイスラエル領とその占領地域およびそれ以外の土地に住むパレスチナ人の権利を擁護している。サイードは長年にわたってパレスチナ民族評議会の一員であったが、1993年に調印されたオスロ合意をパレスチナ難民のイスラエル領へ帰郷する権利を軽視したものであると考えているため、ヤーセル・アラファートとは決裂した。彼はまた、イスラエルがパレスチナ側からの承認と引き換えに占領しているヨルダン川西岸とガザ地区から撤退し、そこに住むパレスチナ人の将来の自立について交渉を開始するというオスロ合意の取り決めにも、そのように分離させるのではなく、代わりにアラブ人とユダヤ人が等しい権利を持つような新たな国を作るべきとの「一国家解決」論を主張して反対している。イスラエルのパレスチナ占領に関する彼の著書には、『パレスチナ問題』(1979年)、『The Politics of Dispossesion』(1994年)がある。

彼はまた、熟練したピアニストとして、雑誌『The Nation』に音楽批評を長年にわたって寄稿した。音楽評論をまとめた著書や、音楽学との学際的な講義も行なっており、忌日が偶然にも誕生日にあたるグレン・グールドの熱心な信奉者として知られていた。1999年には親しい友人でアルゼンチン生まれのイスラエル人のダニエル・バレンボイムと共に、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団を作った。これは才能ある若いクラシックの音楽家たちをイスラエルとアラブ諸国の双方から毎年夏に集めるという試みである。サイードとバレンボイムはこの業績が「国際的な理解に貢献した」という理由で2002年度のスペイン皇太子賞を受賞した。英語、アラビア語、フランス語に堪能だった。

サイードは晩年は白血病を患って教鞭をとることもまれだった。2003年9月25日、長い闘病生活の末に、ニューヨークで没した。67歳だった。
(以上、ウィキペディアより引用)

どんな人も病には勝てないんですね。。

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